2016年9月26日月曜日

憲法第9条の1日も早い改正を

以下、パソコンのメモに2010年10月に書いていたものを見つけた。ブログに上げようとしていたのだが、忘れてしまってそのままにしていた。
2010年10月というと尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件があって、怒りにまかせて書いたのだが、6年たった2016年、日本をめぐる安全保障状況は悪化の一途をたどっている。
民主党政権から今日の自民安倍政権に至るまで、日本の政治はこの6年間無為無策を続けていた。尖閣諸島では中国の行動が徐々にエスカレートをしている。さらに致命的なのはこの間に、北朝鮮が日本の大都市を一瞬で「火の海」にするだけの核兵器、ミサイルを手にしたことである。
先の大戦では、国のリーダー達が決断を先延ばしにしたために、和平のチャンスを逃し、無理な開戦に追い込まれた。終戦の決断もすぐに出来ず、終戦前後だけで、原爆投下による広島、長崎の市民、ソ連参戦による満州の開拓移民など、合わせて数十万の日本人の命を失った。
広島の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とあるが、今日の日本人はまた同じ過ちを繰り返そうとしていると思う。

2010年10月のメモより
2010年の尖閣諸島問題で明らかになったことは、日本の外交は「カードを切れない」という点に他ならない。「カードを切る」には軍事的プレゼンス無しには不可能に近い。
このことはこれまでの北朝鮮問題を見れば明らかだ。
隣の敵対する国が長距離ミサイルや核兵器を開発していて何もしない国は無いだろう。世界的に見ると、過去にイスラエルがイラクの原子炉を爆撃したこともある
(バビロン作戦)。核施設を攻撃した軍事作戦は少ないが、1980年代のイラクが核兵器を完成していたら、その後の戦争で中東は核攻撃による未曾有の惨事に襲われ、中東地域そのものが消滅していたかもしれない。現在から見るとイスラエルの判断は正しかった。
現在の日本は過去のイスラエルのバビロン作戦ように北朝鮮の核施設を攻撃出来ない。
憲法第9条の元では、近隣に非常に危険な軍事施設があったとしても、先制的にそれを攻撃出来ないはずだ。
独裁国家の指導者が攻撃してくるはずのない国家とはまともに交渉しない。第2次大戦前のヒトラーとイギリス首相チェンバレンの交渉が代表例だ。
国家と国家の関係は人と人の関係と同じだ。「なめられたら」終わりだ。なめられないよう「威嚇」は必要である。
北朝鮮の核とミサイルが脅威であれば、自国開発のミサイルを平壌なり核や軍事施設に標準を合わせれば良い。尖閣諸島が問題ならば、尖閣諸島周辺に攻撃可能な自衛隊部隊を展開も可能であって良い。そうすれば相手も交渉のテーブルに着こうとする。
軍事的プレゼンスの出来ない日本は、他国から安全保障に関して交渉の相手にすらされていない。安全保障に関しては、戦前の日本がしてきたように「対手とせず」扱いされているのが現状だ。
「戦争放棄」は良い理念だが、日本に害を及ぼす恐れがある時に「武力による威嚇」が出来ないのでは専守防衛でさえ危うい。現在では、他国の軍が侵攻して来なくても国境を越えてミサイルが飛んでくる。国境の内側だけで自衛をするにも限界がある。緊張感にある国のミサイル基地及び大量破壊兵器の生産拠点の攻撃準備は有事前から行っておく必要がある。
「戦争放棄」と「文民統制」の原則が守られている限り、戦前のような酷い状況には陥らないはずだ。憲法第9条をなし崩し的に解釈を拡大するより、「国際平和の希求」と「戦争放棄」を残し、憲法で自衛と国際平和協力のための武力はきちんと認めるべきである。

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